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ひい爺さん [ルーツ]

紀美子さんと話をした。お互いに断片的に語り継がれた話ばかりなので、想像し
ながら繋ぎ合わせてみた。

ひい爺さんの名は田山清太郎と云う。文久3年2月26日に生まれたらしい。
清太郎の先妻の子、清は自分の生まれた家を茨城の鉾田の庄屋で光圀公のお
手植えの松が庭にあったと記憶している。
また、清太郎が栃木県の茂木に移り住んでから生まれた後妻の子、きくの記憶には
父の生年月日とともに茨城県鹿島郡舟主の家に生まれたと残っていた。

さて、その時代背景を調べてみよう。
文久3年(1863年)と云うと坂本龍馬が勝海舟の紹介で西郷隆盛と知り合った頃
だ。慶応3年(1868年)11月に龍馬は暗殺されている。時代が大きなうねりに巻
き込まれていた幕末の最終期だ。
この時代に田山家に関連する話がある。
慶応4年に大政を奉還した徳川慶喜は水戸の弘道館で謹慎していた。ところが、
鳥羽伏見の戦い・上野彰義隊の戦いの残党が舞い戻り、会津の鶴ヶ城の戦いな
どで水戸の空気が嫌悪になったため、駿河へ向かうことを決心した。
7月19日の夕刻、水戸を立った慶喜公は、下市から舟で那珂川を下り、大洗の祝
町に泊る。翌日、徒歩で大貫、子生(休息)、安房(休息)と辿り鉾田の田山家へ宿
泊する。そして翌日、鉾田川沿いの田山河岸から高瀬舟で北浦を下り銚子を経て
駿河へ航海した。7月23日、駿河の清水港に上陸して駿府に着いている。
そして9月8日には明治に改元されている。清太郎5歳の時である。
実は冒頭で記した二人の子どもの記憶とこの慶喜の話を考え合わせると、あくま
でも推測でしかないが、この田山家か田山河岸に生まれたのではないだろうか?
尤も鉾田には田山姓が多いのでなんとも云えないが・・・。

清太郎はその後、30代の半ばまで鉾田で暮らしたのだろう。先妻との間に、息子
二人を残している。教員をしていて、頭は良かったが酒が大好きだったと伝わって
いる。そして鉾田の家を潰したとも伝わっている。田山家の本流だったのか傍流だ
ったのかも今は判らないが、家が立ち行かなくなった事だけは事実のようだ。そし
て慶喜公が泊まった田山家も没落している。どうもこの事実の符合が気になってし
かたないのだが、この田山家の本流に清太郎の名は無い。

推測でしかないが、清太郎は明治33年(1900年)前後に栃木県の茂木町に移り
住み所帯をかまえている。そして多分、息子たちは手を取り合って東京へ出て行っ
たのだろうか?俺の爺さんの清は群馬の星野家に養子に出されてそこで子を二
人もうけているが、それが何時の時なのか定かではない。確かなことは、清が大
正15年(1926年)に東京の滝野川で俺の親爺をつくったことだ。そして清の兄、
雄は大岡山に住みついた。
さて、茂木に住み着いた清太郎はそこで6人の子をもうけ59歳で亡くなっている。
その時に妻きんは41歳、子等は幼く、長女きくは小学校4年生であった。

家と云う概念に反抗していた俺はずっと自分の家系に興味は持たず、25歳で家
を出てずっと東京で暮らしていた。ところがひょんなことから、一昨年から茂木に単
身で住むようになり、その時に親爺から茂木の住所ときくさんの名前を記したメモ
を預かった。この土地で住んでみると日本の歴史上での家と云う考え方の重さを
ひしひしと感じさせられ、自分のルーツを強く知りたくなった次第である。
今日はここまで、少々疲れました。


自分探し・・・4 [ルーツ]

曽祖父 清太郎
祖父 清
父 清次
と伝わってきたようだ。

清太郎の生家と墓が謎である。
H町にあった までは語り継がれたのだが・・・。
断片的には、
 代々庄屋だった
 光圀公のお手植えの松が庭にあった
 清太郎の代で家を潰してしまった
くらいしか手掛かりは無い。

清の妹にきくさんと云う方がいて、
4年前92歳で亡くなられた。
その娘の紀美子さんにお話を聞こうと思う。
唯一の繋がっている糸だ。


自分探し・・・3 本人 [ルーツ]

生まれた街に行ってみた。
ここで、15歳まで過ごした。


駅からの道、と云っても当時は国電を降りると都電が走っていた。

ここはその都電専用の道だった。枕木を渡れず橋から落ちた酔っ払い・・・、電車に引かれて亡くなった女の子・・・。


家に行くメイン道路、当時は広いと思っていたが、こんなに狭かったんだ・・・。


その道路から入った路地。2軒目が家だった・・・。借地に建てた狭い家、いろいろな事があった・・・。


近くの乾物屋。ここだけは当時とあまり変わらないたたずまい。もう店は止めたのだろうか・・・。



保育園は学校法人を取得し幼稚園になっていた。ここの牧師室が居場所だった。礼拝は嫌い、保母さんは骨折させると云う悪い子どもだった。確かここで知能指数が良すぎるから注意して下さいと云われ母親は舞い上がり教育ママのはしりが始まった。


牧師先生宅。小学生になって英語を習いに通ったっけ・・・。

殆どの家並みが当時とすっかり様変わりしていた。
もちろん遊んだ原っぱなど跡形も無い・・・。


自分探し・・・2 メイン [ルーツ]

M市で宿泊し、一路目指すH町へ。


陽射しが暑い中、手がかりはやはりお寺。
三つ目の安祥寺と云うお寺で住職に由来を聞いた。
町中の墓地と疑わしい家を教えてもらう。


第一高校、第二高校、小学校に囲まれた墓地は、
奥が広く、降り注ぐ陽射しに汗をかきながら「清太郎」を捜す。
みつからない・・・。


疑わしい家はここだ。
光圀公のお手植えの松があったと祖父は云っていた・・・。
ならば慶喜公が泊まっても不思議は無い。
果たしてこの家が祖先なのか・・・?

やはり手がかりが少なすぎる・・・。
ここから嫁いだ、昨日の「きく」さんの娘さんに話を聞くしかないか・・・。
まだまだ始まったばかりだ。


自分探し・・・2 プロローグ [ルーツ]



北関東の山奥にその墓はあった。
いま俺が仮の宿としている町にあった。
俺の父方の爺さんの妹がこの町に嫁いでいた。
きくさん。
92歳まで生きて、4年前に亡くなったと云う。
嫁いだU家の墓に旦那と入っている。
しかし、その隣に自分の旧姓の墓がある。
身寄りの無い親類をここに眠らせているとの事だ。
若いころまで名乗っていた姓の墓がこの町にあるなんて!
それも自分と血の繋がった先人の墓が・・・。

ぐちゃぐちゃな家系のなかで戦争を生き抜いてきた父。
そのポツポツと記憶を手繰り寄せて喋るなかから、
一つづつ事実を解明できていけたらと思う・・・。


自分探し・・・1 [ルーツ]

ものごころついてから、中学生まで夏休みの前半は
九十九里の海で過ごした。
父方の祖母さんの実家近くに疎開した一家は、その頃、
寝たきりの祖父さんと海の客相手の駄菓子屋を始めた祖母さんと
ギャンブル狂いの伯父とその家族で暮らしていた。

ここに木造の今にも壊れそうな駄菓子屋が建っていた。
祖母さんのつくるいわし料理や焼ハマグリは絶品だったなぁ・・・。


その家から、真っ直ぐに延びた、海に続く道。
草の生えた、轍の跡だけ土の道で毎朝、毎午後海に遊びに行ったっけ・・・。


ギャンブル狂いの伯父に、何度もこの川に放り投げられて、
死に物狂いで手足を動かし、やがて泳げるようになった・・・。


改装した国民宿舎からの眺め。
波乗り道路というとんでもなく景観を損なう建造物が出来てから
この海岸は魅力を失っていったと思う・・・。
瞼の裏に残る光景は、赤銅色の赤フンの男達と赤い腰巻で
乳房は晒したままの女達が引いていた地引網。
千恵子抄の記念碑。
鳥取にも負けない風紋の砂丘・・・。
遠浅の水際では後ろ向きに歩きながら踵で蛤をたくさん取った。
毎年、暑い、暑い、暑い夏だった。


祖父さんと祖母さんが眠る墓。墓石はまだない・・・。
一世代越えて、俺の役目になるのかな・・・。


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